昭和44年06月19日 朝の御理解
御理解 第45節」
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
三宝様を踏むなと。三宝様を踏むと目が潰れると。これはよく私共は子供の時に教えられました。今の若いお母さん達は、ご飯が畳の上にこぼれたりするのを子供達が拾いでもするなら、そんなものなんば拾うてからばい菌が着いておる、そんな物食べちゃならんと言うて、叱る若いお母さん達が多いですけれども、私共の子供の時はそうじゃなかった。たとえ畳の上に落ちとるとでも、それを一粒一粒こう拾わされたね。罰かぶる。目がつぶれるというふうに言われたもんです。
しかもそれをそのう踏むそれを踏み付けると、いうなら食べ物を足蹴にする、踏み付けると言う様な事をすると、目が潰れるというくらいに厳しく教えられた。ここでは三宝様ということを穀物の意という。穀物はあるいは穀物というのは稲穂ですね。実れば稔る程かがむ。しいらものの事をそんと言うなんですたね。人間は身代が出来たり、旦那様と言われ先生と言われるようになると、ついつい頭を下げる事を忘れてしまう。と言うのが人間のまぁ通常性ですね。いわゆる良い気になるという訳です。
良い気になるということがいけない。また実際に見苦しいもんですよね実際は。けれども自分自身が段々おかげを頂いて少し出来て来ると、それが鼻にかかって来る。いわゆる慢心が出て来る訳ですね。そして人を軽う見る。物を軽う見る。事柄までも軽う見るようになる。こうなると天で頭を打つ。天は高いから打つまいと思うけれども、天で頭を打つのが一番怖い。いわゆるお気づけである。お気づけを頂いてもいただいても、お気づけをお気づけと悟らない。
そこに取り返しのつかない事になったり、折角のおかげを取り落としたりする訳でありますよね。そこでここで私は一番大事な所は、まぁ一番初めにあります、三宝様を踏むなとこう仰るところだと思うのですけれども、今日は取り分けですね頭を下げることを忘れる。いわゆる忘れがちになる。それを心にずうっとかけておっても、いつの間にかちゃんと忘れておる。そこでもうこれならば頭を打たない、これならば大丈夫という生き方があるんですよね。
まぁその前に大事な所の三宝様のところは、何回も頂く御理解ですけれども、やっぱりもう一遍繰り返して申しますとですね。これは去年だったでしょうか、私の長女が豊美です。楽の稽古に典楽会が何時も久留米であります。まぁいうならばあちらで先輩の人達から合楽をさして、大変やかましく言われた。先輩の人達がやかましく言われるどころではない。もう本当に堪忍袋の緒が切れる位にやり込められた。それでもまぁグウグウいうて堪えて帰って来たと言う訳なんです。
例えばそのうそういうことがなくても、私共が本当に辛抱し抜かなければならない、グウグウ言うてこらえんならんと言う様な事があります。その事をお取り次ぎさせて頂きました。そしたらまぁよう辛抱して帰ったということですけれど、それこそが宝様だぞと神様が。その事が三宝様の三の字を取りますと宝様になる。私共が欲しいのはその宝なんだ。宝というのは一切のおかげを指すでしょう。そういう例えばおかげの元にもなるような、宝のようなものを私共は粗末にする。
してみるとその事その例えば辱めを受けたとか、悪口を言われたとか、もうそれこそ席を蹴って立たしてもらうような場合であってもです、その事をその事を宝と神様は言うて下さるのですから、言うたらそれを本当に大事にしなければならないのですけれども、それを言うてかやしておると、例えばいうことになったら宝様をかやす事になる。しかもそれをかやすだけじゃあない。それを例えば踏み付けるような事をする。
例えばこれは様々な難儀と言った様な問題をですね、疎かにするということは、その宝様を踏み付けるようなものです。よう辛抱して帰っただけじゃあない、その事が豊美さん本当いうたら宝様ぞ。それを大事にしていくのが信心ぞと。してみるとその先輩のその先生にです、それは成る程私その時の模様を聞かせて頂いたが、もうほんなこて豊美の性格であるならば、ブルブル震える程腹が立っただろうと思う様な事を言われている。けれどもですね、それが宝だと私共が分かる時です。
金光様有り難うございますと、このようにして宝が身についておる。してみるとその言うておる人に、お礼を言わならん様な事である。この宝こそ大事にしなければならんのである、という頂き方こそがね、最後に言われる徳が身につくということである。そういうことが頂きに頂き抜かれて行くところに、段々身に徳がついて来て自ずと自分の頭が下がるようになる。次ぎはどういう物の前にでも頭が下がるようになる。その事のおかげでその次ぎに行った時にゃ、まぁ大変おかげを頂いておりますが。
本当にそのう辛抱ということよりも、その事はむしろ宝様だとしての頂き方、ここに私は次ぎに言ってあります様に、三宝様を踏むと目が潰れるとこう言う。お互い何を稽古しておるかと、信心するものは肉眼をおいて心眼を開けとこう仰る。心眼を開く為の稽古というても良いのです。心眼というのは本当の事が本当の事として分かる事なんだ。例えば病気なら病気というのが、形の上に病気でありますけれども、そのこれは肉眼で見た目が病気であって、心の眼をもってするとそれが宝様だと言う訳なんです。
いうならば神愛だという訳である。してみるとですね難儀というものがだんだんと無くなって来るんですよね。心の眼を開いて来ると。そこで信心させて頂くものは肉眼をおいて心眼を開かせて頂く稽古をさせて頂いて、だんだん目が恐らくパットでも見えて来る様になる、その薄っすらとでも見えて来るその目がです、三宝様を踏む事によってまた潰れるのじゃないか。そこを例えば私信心させて頂くものは、繰り返し繰り返しその繰り返しておるように思う。
これこそ自分が有り難く頂かなければならない様な事を腹を立てておる。これこそお礼を申し上げねばならない事を嫌だと思っておる。これはもうすでに宝様を踏み付けておるようなもんだ。だから折角信心させてもらいお話しを頂いて、肉眼をおいて心眼が開きかかって来た。はぁ本当の事はそうではないんだということが、だんだんと分かって来た。これは困った事でも難儀な事でもないんだ。これは本当に分かりやすく言うなら、私をいよいよ育てて下さろうとしておる、神様のお心だと分かって来た。
心の眼が開けて来たんです。ところが心の眼が開けてくるとです開きかかって来てもです、その開きかけた眼がつぶれるようになる。次ぎにはちゃんと忘れてしまう。分かっておるのだけれどもついつい忘れておる。まぁ大変昔の話です。まぁだ世の中にお餅なんて物が無い時です。あるもう山の中の田舎の人が町に出てよばれた時に、そのうお餅を出された。なかなかと美味しかったんですね。これはなんちゅう物ですか。これは「ぼっち」という物ですよ。ぼっちとは餅の事。
それを持って家に帰ってからあそのう家内にぼっちを作らせようと、名前を忘れたらならんと思うてから、帰る間中ぼっちぼっちと繰り返し言うて帰ったちゅうね。ところがそのう山の事ですからいわゆる山を越え谷を越えて行きよるうちに、その谷をこう越えなきゃならんところがあった。その時はヨイショと言うてからその時に、ちゃんと今までぼっちぼっちと言うておった事を忘れちしもうちから、ヨイショヨイショと言うて帰ったと。して家内にヨイショちゅうもんばば作れと言うたちゅうような言う話。
と言う様にもうこれは絶対そうなんです。私共の前には一切難儀は無いのだ神愛だと。それはどんなに腹のワタがちぎれるような思いをするような事であっても、よくよく見ると、そういう思いをするような事であればある程に、それは深い神愛の現れなのだと。これはおかげだと。おかげだおかげだ一切がおかげだと思いもし、言いもして行きよるのだけれども、何かの調子にドッコイショと言うたならドッコイドッコイと言うてしまうようになって来る。
この辺のところをです、私はここではそのうそれを踏み付ける様な事をする。それを疎かにする。そこから折角開きかけたいわゆる眼が潰れるというのはそう言う風に頂く。ですからここが一番大事なところです。信心させてもらウそういう本当の事が分かって来る。本当のその難儀と思っておったけど、その難儀の実態というものは難儀ではない、ということがまぁここはこの様な風に頂きますから。それに致しましてもですね、頭を下げる事を忘れるという。
ここん所に段々焦点をおいて私は皆さんに聞いて頂こうと、言うのも私御祈念を終わらせて立とうとした時頂いた事が、縁の下の力持ちと言う事を頂いた。力餅。それこそぼっちぼっちである。これを本当に思い続け祈り続け言い続けてこなければいけん。どういう時に直面しても、そこからパット変わって似ても似つかない物に変わってしまっておる様な事では。だから眼が潰れる様な事になって来るんだと。本当の事が分からなくなる。何時までたっても何時までたっても、肉眼をおいて心眼を開く事がでけんと。
心眼さえ開きゃ本当に有り難い事になって来る。だから心眼を開く為に信心をしておるようなものであるところを。そのう縁の下の力持ちと言う様な事は、どの様な事であろうかと、勿論縁の下ですから暗い所ですよね。まぁ普通ではこんな馬鹿らしい事はない。私はほんなこと馬鹿をみておる。私は何時も縁の下の力持ちである。表面にも出ておる表面にも出らない。何時も縁の下力持ち。こんな馬鹿らしいことはないと。こう言う風な時使うんですよね。
けれども信心で言うと、私はこの縁の下の力持ちこそが素晴らしいとこう思うですけど。まぁこう一概には言えないでしょうけれどもです、一概には言われませんよ、けれども例えば本部当りでもね。まぁ本部当たりに表面に出ておられる先生達はね、はぁそれは尊い御用はしておられるけれどもです。そういう先生達の所では人があんまり助からんちゅうが。ただ本当に力を持った、本当に人が助かるような教会の先生当たりは、もう黙ぁってどこにござるか分からんようにしてござる。
それこそ何時も縁の下の力持ちで、人が助かる事さえ出来れば良いということだけを念願してござるという先生方は、それこそ名も知られてはござらないという先生達が、教団の中にあるからこそ、現在の教団が支えられておるんだと、本当の意味での御用は、そういう先生方によって出来ておるんだと。だから表面に出とっとは、先ず力がなかと言われる事を聞いた事がありますが。それもまたあながち嘘じゃないと思いますね。
そういやぁ本部当たりの偉い先生方の所では、あんまり教会の御比礼が立つところが確か少なぁいようにも思いますね。そこに例えば人が助かりさえ出来ればという信心。人が喜んでさえ下されば、人に見えないこういう陰で一生懸命働いておられる、そういう舞台裏なら舞台裏という所を有り難く、そこん所を実意丁寧に大事にしていく。それが表面に出された時こそが本当なもんである。もうその頃にゃですね表面に出ても、頭を打つ様な事のないだけの信心が身に付いて来る。
いわゆる肉眼をおいて心眼を開かして頂いておるから、どの様に高い所へ置かれてもです、もう人を見下したり、または三宝様を踏むような愚かな事をせんで済むほどしに、おかげを受けておる事であろうとこう思う。甘木の初代が七年間小倉の教会で修行された。早い人は半年まぁせいぜい一年か、一年半くらいでどんどん修行生の方達が布教に出られる。お弟子さん方が。けれども安武先生だけは七年間修行された。そしていよいよ布教に、それこそ全然未知な土地であるところの、甘木に布教されておる。
もうそれこそ甘木甘木と草木もなびく程の御比礼が輝いた。あっという間であった。それで或る先生が、どうして安武先生の所だけあんなに人が助かるのでしょうかと質問した。桂先生に。桂先生が仰っておられることが。「安武は舞台裏のね舞台裏の生活が長かった」と仰った。ですから例えばお芝居ならお芝居でいうならば、いわゆるあの花道のあの七三なら七三まで進んで来た時には、それこそ大向こうから「わあぁ」と声が掛る様にです、大向こうから拍手喝采が起こっておる姿が、甘木の御比礼だと仰った。
いうなら七年間縁の下の力持ちを続けられた。そこで本当の力が出来た。その力がいよいよ布教という時に現れて来た。いかにその縁の下の力持ちと言う事がね、実意丁寧にただ親を思う一心。自分がここを今小倉の大広前を自分が今頂いたら、この事この事が御用が出来ないのだ。自分がおらなきゃば出来ないのだ。それで親先生にお願いしてもう一年もう一年とお願いして、七年間も辛抱されたとこういうね。舞台裏の生活縁の下の力持ちの時期が長かった。その間にしっかりと力を受けられたとこういうのである。
同時に縁の下は暗い。認められないですけれどもです。暗いからどうしても自分の心の中から発する光が必要になって来る。暗い思いばかりしておると馬鹿らしか。その暗い所を明るくする事の為に、光を求めてくる心が誰よりも強くなって来る。その縁の下の力持ちということをね私は頂いて、今日の御理解を頂いたらこの四十五節を頂いた。只今先に申しました三宝様というところは、この御理解のいわば中心にもなる大事なところだから何時も頂くけれども。
この頭を下げる事を忘れると仰るが、頭を下げる事を忘れんで済むおかげを頂く為に、これはひとつ本気で縁の下の力持ちにならなければいけない。これは自分が頭を上げようと思うても頭が上がらんのだ。そうでしょう頭を上げようと思うても頭は上げられない。縁でおさえられている。ははぁこれなら頭を上げんですむなぁと私は思うのです。そこでですなら縁の下の力持ちと言う事はどう言う様な事だろうかと。なら総代とか幹部とかいう者はもう縁の下の力持ちじゃないか。
総代として認められた。幹部として認められておれば、それはもう舞台に出ておるのか、そうじゃ決してない。例えばねお広前のまぁ運営というかね、お広前の発展というか、その事のためにお互いが一生懸命にならしてもらう。お広前の事で何時も頭が一杯。本気でお広前の事を考えておる。私はそれが縁の下の力持ちだと今日は思う。お広前の事で何時も頭が一杯だから頭が上がらんのである。このお広前の事ということであったら、こりゃもう絶対間違いない事なのです。
それが自分の事で頭が一杯だから、調子が悪い時にゃ頭を下げてごたるけれどもです、調子がようなると俺がしたからこうなったというてからすぐ頭を上げる。お互いが縁の下の力持ちにならせて頂くためにも、上げようと思うても上げられないようなものを上に置いておかなければいけないということ、それは間違いないことお広前を中心にして考える、そういう考え。もうそげなお広前の事でんじゃなか、自分の事で頭が一杯と言う様なこっじゃから、何時まぁでん頭あがらん本当に頭が上がらんのである。
そしてならちょこっとばっかりおかげを頂いて来ると、もう安心したごたる風でもう慢心が出て、ちゃんとまた天で頭を打つ様な事になっておる。今日私は頭を上げようにも、上げられないと言う様なねおかげを頂く為に、お広前の事を思うということ、いわゆる神様を中心にした事を考えておるということ。それこそ人が助かる事さえ出来ればという思いっていうものが何時も頭にある。そこに自分の助かる道がある。勿論それに繋がる人が助かって行く。人の助かる事がいわゆる無条件なんです。
そこに私は頭を打たんで済む生き方があるとこう思う。人が助かる事さえ出来ればという思いである。縁の下の力持ちというのは、今日はここのところの事であったなぁと自分で思うのです。頭の上げようがない。そこんところの私はおかげを頂いて力をいよいよ受けて、縁の下からいよいよ引っ張り出されるようなおかげを頂いた時こそがです、私は徳を受けた時の姿であると思う。いわば肉眼をおいてはっきりと心眼を開かせてい頂いた時であると思う。
そこには心眼の世界だけしかありませんから、頭を打ちようもなからなければ、頭を上げるね事もない。慢心が出るとおかげを取り外すぞとこう仰る、一番最後に。ですから私共がですね、慢心の出ようがない程しのおかげを頂く為に、縁の下の力持ちをその時代を大事にしなければならない。いよいよその時に力を受けとかなければならない。どんなに暗い所でも光が自ずと出ておるようなおかげを頂かなければならない。そこに肉眼をおいて心眼を開いた者の姿がある。おかげを取り外す事がない。
まぁ皆さんの場合にゃそのおかげを頂いておりますけれども、取り外す程しの心配なる程のおかげを受けておる者はまだ無いと思う。ですから今こそそのおかげを受けなければならない。ためにどうでも本気での縁の下の力持ちの御用を願わにゃならん。そして力を受けて頂いたおかげ。その事を取り落とす事の無いおかげを頂く為にも、そこんところを大事にしていかなければならんというふうに思うのです。
今日四十五節から頭を下げる事を忘れると。確かに忘れがちである。いわゆるぼっちぼっちが、すぐドッコイになってしまう、程しに忘れ易いのである。心にかけ続けておるようであってもつい忘れておる。似ても似つかない物になってしまっておる。お前はどこに信心しておるかと言う様な結果になってしまっておる。そこでです私共が頭を上げようにもあげようのないおかげを頂くために、下げ続けておくために、そこんところの信心を本気で分からせてもらわないとならない。
私は皆さん朝の御祈念をここから、皆さんの御祈念ぶりをここから見ておるのですが、私は今上野愛子さんが御本部から帰って来ておりますが、話しておるのを聞かせて頂いたんですけれども、毎日あのう四代金光様の奥様が、毎日時間をきちっと決めてきちっとお広前に、御礼参拝があるそうですね。そしてもうそれはそれは長い長い御祈念をなさるそうですね。金光様があぁして一日御結界に御奉仕下さる、その後祈念。その奥様が長い長い時間をかける御祈念をなさる。
その長い長い時間が、いつか親先生が仰ったように、御祈念をする時にはね、額と手の間に指一本空けておけと言われたがね、金光様の奥様が御祈念なさる時には、長い長い御祈念だけれども、決して額を手に付けられない。ということを昨日上野さんの話しておるのを聞かせて頂いてから、有り難い事だなぁと思わせて頂いた。我らの願う頂いておる教主様、その奥様の御信心のその御態度からだけでも、どれくらい御立派な御信心が御出来になっておられるかということが分かっているけれどです。
それをなら皆さんの御祈念振りを見ておると、大概の人がですもう頭を抱えてしもうてからしとるけん、寝てござるとじゃなかじゃろかと思う。ここにきは嘉朗さんが一番素晴らしい何時も、こうしたここを必ず開けとる。もう末永さんだんてんでんもうこうしてから腕まくらせんばっかりにして休んどる。本当ですよ。それで済んでからやっと目を開け、もう倒れるごとしてから眠っとる。そりゃあ眠いのが本当です。あれだけの修行が出来よるんですから。これは皆さんも同じ事。
朝早くからこうして眠たいのは本当ですけれどもです、こと神様に通わなければならないというのが御祈念ですから、ぐうぐう眠っとったちゃ通わん。文男さんじゃなかばってん昔椛目で修行しよる時分にそれはそれはそれはすぐ眠る。眠むる方がおかげ頂きます。御神夢を頂く訳ですね寝てる間に。もう必ずそうです。だから眠るとがほんなごつ言いよるった時代があったんですけれどもね。眠りながら頂くのはもったいない。眠むらんなりに通うようなおかげ頂かなならん。
それには皆さんこれをね、だから今日私が言いよる、頭を上げんで済むおかげ頂くためにゃ、一生懸命拝む時間を作る事です。ならもう絶対頭を上げんで済むです。かというてから頭を抱えてからちゃんとここに、そのう額口を畳みの事をここに引っ付いとったじゃ出来んですから。これはもう私は何時も言う様に御祈念する時にはですね、必ず合掌して頭を下げたなら、ここに指一本が入る位に言うならばレールの中で御祈念をしておる気持ちだと、神様は私に教えて下さった。何時汽車がゴーっと来るやら分からん。
そんなに危ないですから御祈念の姿というものはね、必ずここに指一本入る位の間隔を置いてから御祈念する。しかもそれが長い長い御祈念させて頂いても、手に頭がひっつかん位な一生懸命真剣な祈りでないといけないと思う。今日の御理解から言うとお互いが頭をちょっと下げもう頭を上げる様な事にならん為に、縁の下の力持ちになろうと言う事であった。上げようにも上げられないと同時に、私共が暇がありゃ御祈念しておるという気持ち、又は御祈念する事なんです。これならもう絶対頭を上げる事はいらん。
と言うて寝てしもうてはいかんね。何時も神様の前に頭を下げておる事が大事なんです。又拝ませて頂いておる時には自分の心の中にそんな慢心な心が起こる筈がない。これは形の上で頭を下げておくやはり稽古であります御祈念とは。同時に心の上においては何時も頭の中に神様に喜んで頂く事で一杯。取分け御広前の事で一杯。そういう一杯のものを私共の上に頂いておりますから、頭を上げようにも上げられない。それを今日は縁の下の力持ちと言う様な意味で聞いて頂いたんですね。
どうぞ。